気多神社の沿革
気多神社は、伏木一宮地内にある越中国分寺跡の西方山裾に鎮座する。
延長5年(927)に完成した延喜式神名帳に記載された神社は「式内社」と称され古い由緒を貴ばれているが、気多神社は越中国内の式内社34座1つにかぞえられるとともに、神名帳の異本(九条家本)においては越中国唯一の名神大社と記されている。
創建は、社伝によると天平宝字元年(757)に、越中より能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登・羽咋にある気多大社を国府に近い現在地に勧請したものといわれている。(能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。)
一説によると養老2年(718)に僧行基が開基したものともいわれている。
盛時には、越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182)に木曽義仲、天文年間(1532~55)には上杉謙信と2度にわたる兵火で、ほとんど全てが灰燼に帰したという。

当時、お寺が並立してたであろう場所。現在は寺山と呼ばれ、畑などに利用されている。
現在の本殿は、永禄年間(1158~70)に再建されたと伝えられるもので、三間社流れ造り、柿板葺で、正面に1間の向拝をつける。
周囲に玉石をめぐらした亀腹の上に柱を建てる。向拝柱及び全面1列の柱は方柱で、他は全て円柱である。 全体に簡単な意匠であるが木割は大きく雄大な風格を備える社殿で、県内本殿中きっての優品である。

気多神社本殿
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、奴奈加波姫命(ぬなかはひめのみこと)。
神紋は梅鉢。気多神社は加賀藩3代藩主前田利常の祈願所であった。

梅鉢紋
気多神社の瓦にはかなりの数の梅鉢紋が見られる。

気多神社の瓦
境内の御輿堂の中にある狛犬は、鎌倉時代の作と言われる寄木造りで、戦国時代の兵火を逃れ今も残っている。
御輿堂の中には、狛犬の他に歴代の獅子頭も保管されている。

神輿堂

寄木造りの狛犬
元和4年(1618)以来、度々修理されてきたようであるが、昭和25年~26年にかけて総工費340万円で解体修理が行われ、昭和51年には柿板葺の葺き替えが行われた。
なお、昭和6年に国の重要文化財に指定されている。

参考までに射水市三日曽根の気多神社
一宮の沿革
一宮とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のこと。一の宮、一之宮と表記される場合もある。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。
一宮の起源は、国司が任国に赴任したときなどに巡拝する神社の順番とされる。二番目に参る神社を二宮、三番目を三宮と呼ぶ。
ただし、伊勢神宮や出雲大社の別格扱いもある。
律令制崩壊後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けた。元々が社勢などによって自然に決まったものであるため、時代によって一宮が変遷したり、同時期に二つ以上の神社が一宮を争っていた。
現在ではすべての神社は平等と言うことになってはいるが、かつて一宮とされたことのある神社のほとんどが「○○国一宮」を名乗っている。
一宮の神社の附近は ”一宮” ”一之宮” という地名になっていることが多い。
*律令制とは、主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度。律令体制や律令国家と呼ばれることもある。
日本の律令制は、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令の最盛期とされている。
